「清潔感がなく性格の悪く努力不足」と弱者を嘲ることに対する所感

schedule 2026年6月14日category 所感

「弱者だから、清潔感がなく性格の悪くならざるおえなかった」という見方

 まず、余裕がなくなれば、人は清潔感がなくなり性格が悪くなる現実があります。清貧と呼ばれるような人たちは例外的な存在なのだと思います(そしてだからこそ、道徳的な理想と称えられる)。つまり、因果が逆で、「清潔感がなく性格の悪いから、弱者になった」のではなく、「弱者だから、清潔感がなく性格の悪くならざるおえなかった」のだと思います。

 さらに言うなら、清潔感や性格の良さという評価尺度は、強者たちが作るもので、不公平な出来レースではないかという疑念が私にあります。強者が強者に有利な評価尺度を作り、「その評価尺度を満たしていないから、お前は弱者なのだ」と嘲るわけです。これは、他の世の中の評価尺度にも言えることですね。

努力不足論に対する不信

 このセクションはうまくかけなかったので、省略します。

 ただ、「その人なりに人生頑張ってきたのだろう」と思う想像力を持ちたいものです。

「欠点があるから弱者」ではなく「弱者だから欠点ばかり注目される」

 人間というものは多かれ少なかれ欠点があるのに、弱者の場合は「その欠点のせいで弱者だからお前が悪いのだ」と言われ、強者の場合は「誰しも欠点はあるよね」と言われるわけです。要するに、後出しじゃんけんといいますか、「弱者」と「強者」の結果だけを見て、つじつまを合わせるために因果関係を無理くり作っているのではないかと感じます。

 例を挙げると、精神障害者が健常者が多い職場において何かを訴えた時、「その人の認知の歪み」ということで片付けられ、まともに取り合わない危険が考えられます。何が言いたいかというと、弱者が何かを訴えた時、本質とずれたその人の欠点ばかり注目され、その人の社会に対して訴えたいことが真摯に議論されないのではないかと言いたいわけです。ガスライティングといいますか。

清潔になってゆく社会への不安

 近年の社会は、どんどん清潔になっているように思えます。その一方で、「清潔感がなく性格の悪いとされる弱者」は社会から周縁化されているのではないかという懸念を持っています。清潔さを実現したいなら、不潔な弱者を排除し、清潔な強者で固まるのが一番手っ取り早いですからね。この懸念は、定量的に分析したわけではないので、私の推測ですが。

 もちろん、パワハラや差別が問題視されるなど、その清潔重視の社会潮流が弱者に良い影響を与えている面があるのも書き記しておきます。そこは素晴らしいことだと思います。

 これからコンプライアンスによって、弱者を"差別"するのは減っていくでしょう。ただその一方で、弱者が透明化され、まず存在しないかのようになることを懸念しています。更に社会階層の分断や差別と指摘されることへの恐れで、接触・議論すら起こらない。そういう風にならないか心配しています。

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